それでも、欲しい
だから、いらない
077:手を伸ばしても決して掴めないとわかっていた、でも
喧騒は真っ当さの現れではない。人が集まれば虚が生まれた。強者が優遇される裏では犠牲になるものがいる。卜部は現状を省みて舌打ちした。場所が悪い。袋小路に誘導された節がある、その上相手は複数だ。多少は武道に覚えがあるがこれはルール無用の戦闘だ。背中を向ければ蹴り飛ばされるし怯めば腹を殴られる。卜部の抵抗など些細なものでそれは相手も卜部も判っている。だから揶揄されるように髪を引っ張られるのだし卜部の攻撃はことごとく空回りする。折悪しく雨まで降りだした。この雨で退いてくれるほど相手は繊細ではない。むしろ雨で煙った視界に卜部が難渋するのを嘲笑している。
四肢が無事なのが信じられないくらいだ。つまりそれは相手の目的が何であるかを暗示する。卜部は気が短い。痩躯であることと主張しないから知られてはいないが、卜部は事を内密にすすめるとかそういった腹芸が嫌いだ。できない。本心を言わないのと隠すのは違うのだ。背後の相手を窺おうと目を向ける。膕を狙われた。背丈のあるものの典型的な弱点として足場が弱い。重心の位置が高いから、足元をえぐられるのに弱いのだ。
「――っわ!」
そのまま押し倒された。誰かが吹いた口笛が響く。びりり、とシャツが裂ける音がした。釦が飛んで闇に消える。
理由はわからない。それでも卜部は時折こういう性衝動の対象になった。痩躯であるから体力がないとか抵抗も少なかろうと思われているのかもしれない。腹芸が嫌いだから腹をくくれば卜部はむしろ抵抗さえしない。昔はよく抵抗したがそうするとさらにひどい目にあうのを繰り返すうちに、卜部は次第に脚を投げ出すようになった。顔容も体つきも女性性も可愛らしさもない。ただ人を喰ったようだとはよく言われるから、そういう調子に乗っているとは思われているかもしれない。あぁクソ面倒だなぁ。男性体同士の結合の負荷は日常生活に大きく影響する。しかもそのほとんどが受け身側に発生するうえ、その相手のほうは剥離してしまえばあとはなんという障りもない。かなりの不平等さで行為のつけは発生する。
「早く代われよ」
「権利なんか貰わなくたって自分たちでできる」
「上の口はいいか」
そういえば複数だった。仰臥した体に降り注ぐ雨は針の疼痛を帯びた。出血さえないのに驚くほど痛かったり深部へ入り込んでくる。ぱらぱらと頬を打ち四肢を濡らしてシャツを湿らせる雨はぬるい。ぐいと頬を掴まれて固定された。体液の苦さが思い出された。
たん、と音がした。男の耳と、目縁の真横を正確に切り裂いた小刀。しんとした静寂の中で近づいてくる足音がした。
「彼を譲ってもらおうか」
玲瓏とした声に卜部が戦慄した。目線さえ向けられない。周りの男達が一斉にいきり立つ。
「なんだてめぇ」
「使用中だ」
卜部が顔を抑える手を振り払って体を起こした。外套を羽織った藤堂がそこに静かに佇んでいた。声が、出ない。名前を呼ばないだけの分別は保った。男たちは一瞬だけ視線を交わし合うとそれぞれが獲物を手にとった。それでも藤堂はひるまない。
外套の裾がふわりと空気をはらんではためく。そのに秘められていたのは日本刀だ。鯉口を切る音さえさせずに藤堂は抜刀した。そのままの勢いを殺さずに刀を振るう。キン、と硬質な音がしてパキリと安物の獲物が割れた。真っ直ぐな切り口が、それが藤堂の腕によるものだと主張する。同時にはらりと髪が落ちて、男たちの皮膚に赤い線がうっすら引かれた。
「よこせ」
それは命令だった。圧倒的な強者。真っ当であろうがなかろうが藤堂はそのへんのチンピラなど相手にならない。それだけの差が闘気となって冷たく皮膚を刺した。獲物を失った男たちは逃げ出した。卜部は通りすがって標的にされただけである。相手のほうにも卜部の側にも執着はない。まろび逃げる男達の背中を卜部は茫洋と眺めた。
刀をおさめた藤堂が卜部のそばへ膝をつく。大丈夫か、と問う。お前が連れて行かれるのを見かけたから。いらぬ助けだったか。
「……別に」
卜部は否とも応とも言わなかった。藤堂は気遣う眼差しで卜部を見つめてくる。灰蒼の双眸。精悍であるのにどこか涼しげな容貌。硬い鳶色の髪は短くされている。その髪が今は雨にぬれて渋皮色に濁った。藤堂も傘をさしていない。薄手の外套を濡れるに任せて泥の地面に膝をつく。座り込んでいる卜部よりはマシだがそれだけだ。
藤堂の身なりは綺麗なのだと思う。だが決して弱くはない。むしろ卜部程度の実力では及ばない戦闘力を有している。白兵戦や戦闘機での戦闘、作戦の立案と実行力。ありとあらゆる物が卜部を超えている。それは信頼だとか尊敬だとかそういった精神的なものにまで及ぶ。
「巧雪?」
藤堂の玲瓏とした静かな声が卜部の名を奏でた。それさえもが卜部には苦々しい。上司として戦闘の先達者としてむやみに逆らったり支障になったりする気はない。だが感情として、卜部は藤堂が嫌だ。どうしてなのかはわからない。籐堂の前評判は何事も無く聞き流していたのに、直属の部下になって欲しいと誘いを受けた途端に鼻についた。藤堂は偽善者ではないし現状を冷静に判断できる。上司からの命令や指示を踏まえた上で自分の意見を述べることも知っている。これ以上ないほど藤堂は優秀なのだ。でも。
「たいしたことねぇよ」
卜部の頬を撫でる藤堂の手を払う。少し前に卜部は藤堂から好意を告げられた。これが多分好き。お前を、抱きたいと思っている。お前を守りたいと思っている。藤堂の顔は真剣で、もともと嘘が苦手な藤堂の愚直なまでの真っ直ぐさが見えた。卜部の言葉遣いも責めない。つまり藤堂はここがどういう場所か理解しているということでもある。目も耳もすぐそばにある。誰のものともしれないそれがあるのを藤堂は知っている。だから卜部のぞんざいな言葉遣いを正さない。
卜部が俯けた顔を起こさない。卜部も戦闘訓練を積んでいるからある程度相手がどこを見ているかくらいは判る。吐き気がした。藤堂は卜部の乱れた襟元を見ている。きゅっと息を呑む気配がして視線の線が解かれていく。それでも藤堂は焼き付いた卜部の痩せた腹や胸部や鎖骨のくぼみに囚われたままだ。
「私の家に来るか? 少し、遠いが」
遠いなら何故来た。
「空腹ならばおごるくらいの持ち合わせはあるが」
腹なんか空いてない。
「水浴びがしたいなら施設を借りて」
今、雨を浴びてる。
「なんであんたァここにいるんだ」
藤堂の皮膚がピリッと粟立った。引き結ばれた唇が動く。
「お前と一緒に、いたかった」
卜部のしなった右腕が藤堂に平手を炸裂させた。裏拳にしなかったのは卜部が藤堂の助力を感謝しているからだ。あのままだったら無理やり犯されただろう。
「ふざけてんのか?」
藤堂は打たれた頬を抑えもしない。赤く腫れていくのをそのままに雨に濡れている。
「本気だ」
ぎりっと卜部の手が鳴った。握りしめた指が折れそうに痛い。爪先が皮膚を裂いて血が溢れた。その痛みさえも遠い。卜部の体はもう、卜部のものではないのだ。
こぶりな茶水晶が灰蒼を映す。灰蒼は眼球自体がその色であるかのように発光して煌めく。玉眼だ。精悍な顔容に収まっているから迫力も怜悧さも美しささえも備えた。次元が、違う。目をそらす卜部に藤堂は見据えたままの視線を動かさない。卜部のうなじがちりちり燃えた。卜部の髪は完全な黒髪ではなく縹藍の蒼い艶の髪だ。よくからかわれたし嘲笑の種にもなった。双眸さえも茶水晶と色素が薄い。どういう遺伝情報でそうなったかも判らない。背丈ばっかり伸びて目方は増えない。自然と疎外された。だから軍属に入った。実力が全てだと思ったそれは幻想で、厳しい訓練の裏で横行したのは明確な上下関係と体の関係。見目麗しくなくてよかったと思った。
「こうせつ?」
藤堂は卜部の顔を覗き込む。卜部の髪から滴る雫が藤堂の手の甲で弾ける。きらきらとしたそれがひどく気に障る。藤堂の真っ当さや優しさやその見た目さえも、何もかもが。卜部は自ら襟をはだけた。裂けたシャツがその勢いでさらに裂けた。びっと瞬間的な音がして繊維がほつれる。
「なんだよあんた。してぇの」
くっきりと浮かんだ鎖骨やそのくぼみ。軍属としての腕力も瞬発力もあるのに目方が増えない痩躯。「ヤれば? 別にいいぜ」
卜部は堕ちている。そういうことなのだ。この地域で、エリア11となったこの日本で日本人というイレヴンとして生きるということはそういうことだ。権利などない。拒否も拒絶も赦されずにただ受け入れていくしかないのだ。支配に抗う気がないわけではない。だから旧日本国軍などという組織にいる。だが一方で支配に慣れている自分がいるのも知っている。慣れなければいけないのだ。できなければ死ぬだけだ。隷属国とその人種であるということはそういうことだ。
あんたにわかるわけない
そんなふうに綺麗なこと話して綺麗な体をして
強くて きれいな
あんたにわかるわけない
「シたいんだろ?」
卜部は藤堂の手をとって胸に当てた。ひたりと吸いつく皮膚が藤堂の意識の在処を示す。藤堂の動揺さえも伝わるようだ。流体的な組織になった卜部の皮膚や藤堂の皮膚は融け合う癒着を引き起こす。境界線が失われた。互いの情報が溢れだしていく。そして卜部も藤堂もそれに気づいてなおかつそうしている。
「別にいい。どうせ俺の体なんてそれっぱっかの価値しかねぇんだから。僻むつもりはねぇけど現状認識は必要だ」
藤堂の息が、震えた。卜部が目を上げるとわななく唇が見えた。藤堂の指先さえもが震えている。情報は動揺と歓喜と混迷と悲鳴を示す。藤堂は何かを否定したくて否定出来ない。卜部はあえて言及しなかった。卜部はふんと片眉だけつり上げる。そのまま噛み付くように口付けた。藤堂の唇を噛めば、息継ぎで離れた次には藤堂が食んだ。がりっと音がするほどのそれは明確にしびれる痛みを伴って卜部の体を駆け抜ける。ぎちりと肉の裂ける気配がする。ぬるりとぬめる液体が卜部の頤を伝い汚してぽとぽと垂れた。シャツやズボンや地面へ染みていくその深紅の花を卜部は見なかった。必要はない。
「こうせつ」
「しろよ」
「……どう、して」
「生まれつきだよ。ここで生きてくってそういうことだろ」
卜部に迷いはない。だってそうやって生きてきた。そうするしかなかった。感情も感覚さえも殺して偽ってそれが真実。隷属の末路だ。搾取されるままに。犯されるままに。誰も助けてくれないし何者も救うことはできない。
藤堂が、笑んだ。妖艶な娼婦のそれだ。気高く清廉な藤堂には似つかわしくなく、それでいて体として自然にその笑が浮かんでいる。
「私も似たようなものか」
「ハァ?」
「戯言だ」
「……あっそう」
卜部はそれ以上問わない。問うような場所ではないし必要性も感じなかった。藤堂がどうあろうと卜部には何ら影響しない。それ以上に筋肉を溶かす勢いで侵食してくる藤堂の情報のほうが重大だ。藤堂に侵食の意志がなくても方向性として卜部の方を向いているのだ。
「よせよ…うるせぇ」
藤堂は曖昧な笑みを浮かべた。卜部の言っていることは判らないが意思は尊重するつもりなのだ。そういうところが煩わしい。藤堂の意識は明確に拒否しない。言いたいことを言わせてしまう。その上で拒否される痛みや砕ける自尊心は考慮しない。それが卜部は嫌いだ。
「……しねぇなら、かえる」
立ち上がろうとして果たせない。卜部の四肢は完全に萎えていた。唐突な襲撃と終了に意識や筋肉が連動していないのだ。爆発的に熱量を高めた結果として卜部の体はガス欠を起こしている。
「巧雪」
藤堂の声がした。唇が重なる。噛み付くそれではない。ふわりと、柔らかい物が重なった。卜部の眼から涙が溢れた。いつの間にか眼球を覆っていた涙があった。瞬くたびにほろほろと溢れてくる。それは卜部の感情とは必ずしも同調しない。感情さえも揺り動かないのに体のほうだけが感極まって涙しているようだ。藤堂が目を細めた。そうすると眼球すべてが潤んだ灰蒼に満ちるように見える。
「お前が泣くのは辛い」
「うるせぇ!」
弾かれた強さで卜部は藤堂をはねのけた。痛みさえかえりみない。卜部の腕がビリビリしびれた。藤堂は打ち据えられた時の衝撃と驚きと悲しさと疑問に満ちた目を向ける。潤んでいる。
「――いらない」
何が要らないのか卜部には判らない。だが藤堂に言うべき言葉はそれであると知っている。藤堂は目を見開いてその衝撃に耐えている。灰蒼が収束して点になる。涙をこぼしているわけでもないのに藤堂の目は悲しみに満ちて潤んで震えた。睫毛まで震えているようだ。泣くのをこらえながら、そうとは意識していない。無意識でありながらそれは藤堂を支える根幹でもある。藤堂は黙したまま卜部の頬に触れた。涙なのか雨滴なのかさえ判らない潤みにふやけた皮膚を撫でた。それは卜部の有り様を感じようとしているかのように執拗で細部にまで及ぶ。それを何度か繰り返した後に藤堂は黙ったままで手を離し、立ち上がる。卜部は追わなかった。脚が立たなかったがそれ以上に、倦んだ。藤堂を引き止めても繰り返すだけだ。無意味。立ち去ろうとしながら藤堂はその背なに呼び止めの声がかかるのを待っている。だから卜部は声を立てない。隙を与えない。
藤堂が去っていく。軍属としての作戦命令が下れば藤堂と卜部は何くわぬ顔で相対する。だから。卜部は藤堂に声をかけることができない。怖い。藤堂は真っ直ぐで正直でだから卜部は、卜部のすべてが白日のもとにさらされるのが怖い。藤堂の公平さというのはある意味罪作りなほどに正直だ。晒すだけが、暴くだけが良手であるとは限らないことを卜部は知っている。秘めたほうが良いこと。知らぬほうが良いこと。むしろ世の中はそういうものばかりがあふれている。だから藤堂のその公平さは排除しなければ、ならない。――たとえそれで、鏡志朗を失ったと、しても。
「…――ぁは、はは」
見開いたまま渇いた笑いを立てる卜部に藤堂は気づかない。卜部の茶水晶は収束した。涙さえ溢れない。喉も乾いて声というより音だ。藤堂が知らないほうがいいことなんてたくさんあるのだ。
「――は」
喉が渇いて張り付く。声が出ない。藤堂の後ろ姿が消えて行く。それでいいと知っている。哄笑さえ溢れてはこない喉が痙攣する。吐きそうだと思った。咳き込みそうだ。
「はは、はは――」
顔を手で覆う。濡れ髪が額や顔を覆うように垂れていた。ぐしゃりと握り潰す。爪が皮膚に食い込む。痛い。だがそれでいい。痛みの感覚がまだある。――俺はまだ。俺はまだここにいる。
「は――!」
口角がつり上がる。笑みだった。
雨のふる、音がした。
《了》